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【29話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

 五章

「……嘘、うそうそ、……うそよ。……何で、……こんなっ。私、関係ない、知らない知らない」
 車輪の回る音、揺れる窓枠にカタカタと震えながら蒼白な顔を見せるスージーの独り言。それらすべてが耳障りで煩わしかった。
「いつまでそうやってるつもり? そろそろ気をしっかり持ってもらわないと困るわ」
 見かねて声をかけると、スージーはエヴァリンを思い切り睨み付けてくる。
「……な、なに、何を馬鹿なことを! 貴女が……! あ、あんなことしなければ……!」
「何を怯えているの? 私は約束を果たしただけよ。アダルバートの望みを叶えただけ。……でしょう?」
 何の問題がある? と鷹揚に微笑みかけると、スージーは愕然とした顔をして視線を落とした。手の震えが治まらずソワソワと心もとない彼女は、恐怖で今にも発狂しそうなのだ。先ほど目にしたものがあまりにも衝撃的すぎて受け止めきれないのだろう。
 それもそのはずだ。
「アダルバート様は、何もウィルフレッド・クルゼールを殺せとまで言ってないでしょう!」

 あの後エヴァリンに部屋に呼ばれたスージーは、ソファーに力なく横たわったウィルフレッドを目撃して慄いた。恐る恐るこちらを振り返り、『旦那様、どうなさったのです?』と口を震わせながら聞いてくる。その無様な姿が滑稽で、笑いがこみ上げてきた。
「見てのとおりよ、スージー。ちゃんとアダルバートの憂いを払ってあげたの」
 彼女の肩に手を置いた瞬間、面白いほどに跳ね上がる。底意地の悪い愉悦がエヴァリンを黒く染め上げて、唇の端を持ち上げた。
「私ね、思ったのよ。何をやっても彼の評判は傷つかない、心に傷を負わせることもできない。ならいっそのこといなくなってもらったらいいんじゃないかしら? って。そうしたら、アダルバートも今後一生、ウィルフレッドに煩わされない。……違う?」
「ひっ!」
 いつも脅迫されるのはこちら側だった。リコリスを引き合いに出し、言うことを聞かせるためにエヴァリンに発破をかけてきた。
 今度はこちらの番。エヴァリンの嗜虐の心がうっすらと笑う。
「ま、まさか……! あなた、ウィルフレッドを……、本当に……?!」
「疑うなら確かめてみればいいじゃない。ほら、もっと近づいて、触ってみて? 彼の心臓が今、どうなっているのか……」
「いやぁっ!!」
 悲鳴を上げて肩からエヴァリンの手を振り払ったスージーは、その場にうずくまり震えあがった。随分と怖がってくれているようだ。だから追い込むように身を屈めて、彼女の耳元で囁いてやった。
「どうしたの? 確かめないと、ちゃんとアダルバートに報告できないじゃない。ウィルフレッドがどんな風になったのか。見て、この顔。まるで眠っているようじゃない? 本当ならこの世のものとは思えないほどの苦悶の表情をさせたかったけれど、手に入った薬がその手のものじゃなくて。残念だわ。苦しんだのならもっとアダルバートを喜ばすことができたのに」
 スージーの声にならない絶叫は、部屋の中に小さく響く。きっと小心者の彼女は、身動き一つしないウィルフレッドに近づく勇気もないのだろう。
 少しの優越感と湧き出る嗜虐の心。それらをグッと抑え込んで使命感を取り戻す。何もスージーを虐めて今までのうっ憤を晴らすのが目的ではない。
「さぁ、この朗報をアダルバートに伝えに行きましょう。きっと喜んでくれるわよ」
 動こうとしないスージーをどうにか宥めすかせて部屋を出た。
 途中、家令に出くわし馬車を用意するように伝えると、彼は気まずそうに眉を下げながら聞いてきた。
「今日は結婚記念日でお二人で過ごすはずでは……」
「どうやらスージーの家族が危篤らしいの。見て。こんなに憔悴して動けないみたいだから、私が付き添おうと思って」
「なら、他の者に付き添わせますが」
「いいえ。私もお世話になった人だから。ウィルフレッド様もぜひ付き添ってあげなさいっておっしゃってくださったの」
「左様でございますか。早急に馬車を用意させます」
 人のいい家令はエヴァリンの口車に乗って迅速に動いてくれた。思えば彼はエヴァリンを気遣ってくれた、数少ない人間の一人だった。
「ありがとう。……ごめんなさいね」
 屋敷を出る間際に振り返って言うと、家令は静かに微笑む。その優しい顔に罪悪感をチクリと覚えながら、二人で馬車に乗った。

 それからずっとスージーはこの調子だ。気が狂ったかのようにブツブツと呟いて、誰も聞いてはいない自己弁護を繰り返していた。
 馬車は郊外に続く橋をちょうど渡っている途中で、しばらくすればアマリス邸だ。このままスージーが使いものにならなければ困るには困るが、それはそれで臨場感があってアダルバートに与える印象は強いものになる。これ以上宥めるのも無駄になりそうなので、そっとしておこうと窓の外に目をやった。
 ところが、スージーは徐々に冷静になってきたのか、独り言を止めてしばし沈黙した。そしてそろりと顔を上げて口を開く。
「ウィルフレッド・クルゼールを……こ、殺した、薬って、……どこで?」
 見張っていたはずなのに。薬を手に入れる機会などあるはずないのに。そう言いたげな視線を向けてきた。その目が生気をなくした亡霊のようだと、怖気が走る。
「スージーも見たじゃない。ポンファール夫人が送ってくださった瓶」
「あれは、リコリスティーじゃ! だ、騙したの?!」
「だめよ? ちゃんと調べるものはくまなく調べないと。思わぬところに思わぬものが入っていたりするものだから」
 ニヤリとしたり顔をしてやれば、スージーは見る見るうちに顔面蒼白になり打ちひしがれたように上半身を崩した。
「でも貴女は忙しかったものね。厨房に見習いで入った……ブライアンといったかしら? 随分と彼に夢中だったから、私に注意を配るのを怠ってしまったのよね? あの日も彼のもとに駆けつけたくてしょうがなくて」
「ブライアンは、そんなんじゃ……」
「よかったわ。彼に教えてあげたの。うちのスージーが貴方のような人が好みだから、ぜひとも誘ってあげてって。どう? 満更でもなかったでしょう?」
「うそ……」
 スージーの隙を作るのは案外簡単だ。一人で外出は難しいが、この屋敷で一人の時間を持とうと思えばブライアンとの逢瀬の時間を利用すればいい。
 彼女はアダルバートに心酔はしているが、一方で寂しがり屋で常に男性と関係を持ちたがる。本当はアダルバートに愛されることを望んでいるが、当のアダルバートは見向きもしない。あくまでスージーは彼にとってはメイドで、使う人間。それを分かっているからこそ、他の男でその寂しさを満たしていたのだろう。
 職務怠慢でアダルバートに責められるのは必至。それを恐れ、そして過激な手段をとったエヴァリンも恐れている。
 きっと遊びの延長のようなつもりでいたのだろう。監視をしていびって、アダルバートにエヴァリンの様子を耳打ちして。それだけでよかったはずなのに、気が付けば凄惨な事態になっている。
「よかったじゃない。ずっと愛しい愛しいアダルバートのもとに帰りたかったんでしょう? 大嫌いな私から離れて、遊び相手のブライアンとはお別れして。そのためにリコリスの名前を出して、私を焚き付けていたんじゃない」
 憐れむ気持ちはある。だが、それよりも自業自得だと鼻で笑いたくなった。アダルバートの威を借りて虐げてきたのは、他の誰でもないスージーだ。
「でも……少しでも考えなかったの?」
 さぞかし愉快だったろう。弱者を虐めるのは道義にもとる行為だが、誰かを下に見て強者の気分を味わうのは麻薬にも似た快感があるものだ。癖になりなかなか抜け出せない。
 けれども、弱者にも牙がある。
「私が密かに反撃の機会を窺っているのかもって」
 地べたを這いつくばりながら、長い時をかけて研ぎ澄まされた鋭い牙。それが錆びないうちに相手に突き立てる準備をしていたと、本当に彼女は思わなかったのだろうか。そうなのだとしたら、それは驕りでしかない。
 ちょうど馬車は動きを止めてアマリス邸に到着した。怯えて行くのを嫌がるスージーの腕を掴み、アマリス邸の門扉の前に下りる。馭者には、帰りはアマリスの方から馬車を手配してもらう旨を伝えて、クルゼール邸に帰ってもらった。
「さぁ、スージー。これが終われば貴女が嫌いな私とリコリスが消えて、ここに帰ってこられるわ。頑張ってちょうだい」
 意地の悪い激励を耳元で囁きながらアマリス邸に入っていく。
 相も変わらずこの家の雰囲気は殺伐としていて、あまり心地いいものではない。それはエヴァリンが歓迎されていない場所だというのもあるだろう。来客がエヴァリンだと分かった瞬間、出迎えにきた使用人が顔を歪めるのだから本当に躾がなっていない。
「アダルバートを呼んできて。緊急よ」
「……かしこまりました」
 そう返事をするということは幸いなことにアダルバートは在宅らしい。彼がやってくるのを待つ間、あの趣味の悪いサロンに別の使用人に通された。
 ほどなくしてアダルバートはやってくる。当然、ご立腹だ。前触れもなしに自分の時間を奪われるのは、彼の性格上我慢ができない。
「ふざけるなよ、お前! 事前に訪問を知らせておくのがマナーだろうが! そんなこともまともにできないのかこの出来損ない!」
 扉を開けた瞬間に怒号のように浴びせかけられた罵声は、しばらくやむ様子もなく繰り出される。スージーの顔色がさらに悪くなって真っ白になってきたのを見て、ようやくエヴァリンは口を開いた。
「怒るよりぜひ褒めてほしいものだわ、アダルバート。ようやく本懐を遂げることができたのだから」
 あとからブラッドリーが入ってきて、アダルバートに落ち着くように耳打ちをしているところだった。それもあって彼は徐々に落ち着きを取り戻し、こちらの言葉に耳を傾けることができたようだ。アダルバートは怪訝な顔をしてこちらを睨み付ける。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味よ。遅くなったけれどようやくウィルフレッド・クルゼールを貶めることができたのよ。これで彼の名前も地に落ちるわね」
 にこりと晴れやかな表情で報告するも、いまだにアダルバートはよく理解できていないようだった。
「クルゼール様に何をされたんですか?」
 そんな理解の遅い主人に代わってブラッドリーが質問してきた。隣でスージーがびくりと肩を震わせ、そっとエヴァリンの陰に隠れる。
 それを横目で見ていたエヴァリンは、クスリと笑った。
「ねぇ、スージー? 何をしたのか、ちゃんと報告したらどう? 私の口より貴女からの方がアダルバートも信じるのではなくて?」
 自分は関係ないとばかりに逃げようとするスージーを逃がすまいと引き合いに出すと、アダルバートが彼女に『何があった』と尋ねた。
 彼にそう聞かれれば無視するわけにはいかなかったスージーは、しどろもどろになりながら一歩前に出る。鋭い視線に晒されて、追い詰められた彼女は声を震わせながら答えた。
「あ……、あの、エヴァリン様が、ウィ、ウィルフレッド・クルゼールを、……毒殺しました」
「なにっ!?」
 アダルバートの驚愕の声が響き渡る。それに続いてブラッドリーの息を呑む音も。
 残響が消えた後に静寂が広がり、皆が皆口を噤む。ただ一人エヴァリンだけが鷹揚に微笑み三者三様の表情を楽しんでいた。
「ど、毒殺って……。おいおい、冗談だろ? 殺すなんて、……そんなことお前にできるはずないだろう?」
 半信半疑。まさかそんな恐ろしいことをエヴァリンが起こしたなど、アダルバートは信じたくなくて鼻で笑い捨てようとした。だが、血の気の引いた顔で固まったままジッとしているスージーを見て、そしてエヴァリンを見る。ブラッドリーにも視線を送ったようだが、誰一人冗談だとは言わない。
「おい、スージー……」
 どういうことかちゃんと説明しろと、アダルバートがスージーに問いかけると、観念したように目を閉じて口を開いた。
「本当です。……私、見ました。ウィルフレッドが、横たわって動かなくて……。エヴァリン様が、ウィルフレッドがいなくなればアダルバート様の憂いがなくなるっておっしゃって。もっと苦しんだのなら、アダルバート様も喜んだろうって!」
 まるで末恐ろしいことを体験したとでもいうように震えるスージーの様子を見て、アダルバートの顔色がサッと変わる。臨場感あふれる言葉にいよいよ信じ始めたといったところだろうか。
 スージーの不安が徐々に感染していく。
「殺したっていうのかよっ。あいつをっ」
 声が掠れているのは咽喉が震えているからなのかもしれない。そこまで緊張感を高まらせているくせに虚栄心だけは一人前のアダルバートは、エヴァリンの首を押さえつけて凄んできた。
「可笑しな話ね。急かしたのは貴方じゃない。私を呼びつけては『まだか、いつまで待たせる』って怒鳴って。だから私なりに頑張ったつもりなのよ? 何が気に入らないっていうの?」
 ギリリとアダルバートの指が首に食い込み、息がしづらい。それでも余裕な顔をして笑ってみせるのは、ここで決してアダルバートに怯んではいけないからだ。
 ここが肝心だ。しくじればすべてが泡と消える。
「クーベルチュオン伯爵ほどのスキャンダル、ご希望だったでしょう?」
「馬鹿か! だからって殺す奴がいるかよっ!!」
「……うっ」
 さらに手のひらで咽喉を押し付けられて、思わず呻いた。相当頭に血が上っている。おそらく冷静さも欠いてきているところだろう。
「アダルバート様、これ以上は。話を聞けなくなります」
 そろそろ目の前が霞みがかって限界を迎える寸前、ブラッドリーが間に立ってアダルバートの腕を掴んで制止をかけた。それによって我を失いかけていたアダルバートはハッと正気に戻り、ブラッドリーに導かれるままに手を外す。
 一歩退いて肩で息をしているアダルバートは慄いていた。それはエヴァリンへの怒りからか、それとも己の行動の突飛さについてだろうか。
「そうよ、アダルバート。ここから話が面白くなるんだから、そんなに焦らないでよ」
 少し咳き込みながらも挑発してみせると、案の定彼はまた頭に血を上らせて掴みかかろうとしていたが、その前にブラッドリーが阻止をする。これ以上手を出せないように、ブラッドリーはアダルバートを背に向けるような形でエヴァリンと対峙した。
「ブ、ブラッドリー! こいつ、殺しやがった! ウィルフレッドを、殺した! 俺はどうなる! 俺は……俺は……!」
「落ち着いてください、アダルバート様」
 混乱し興奮しているアダルバートは、必死に目の前の従僕に助けを求めてもがいていた。後ろから暴れてくるので押さえ付けるのに必死なのか、珍しくブラッドリーが顔を顰めている。加えて隣でスージーが悲鳴を上げるものだから、部屋の中が混沌としていた。

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