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【20話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

「あいつと結婚すれば俺から逃げられると思ったんだろう? リコリスを連れてこの家を出られると、お前なら考えたはずだ」
 絶対に逃がしてやるものかと、目の前の悪魔が笑った。
「お前のことだ、小賢しく考えるだろうと思ったが、確実な手を取って正解だったな。まぁ、安心しろ。ちゃんとリコリスの治療は続けてやる。お前が俺の言うことをちゃんと聞いている限りな」
 アダルバートが笑いながら部屋へと入っていく。その憎い背中を呆然と見つめながら、エヴァリンは壁伝いにずるずると床にしゃがみこんだ。
 ――あぁ、どうしよう。とうとうあの子を巻き込んでしまった。
 守るはずだったのに、結局危険な目に合わせる結果となってしまったのだ。
 なんて惨めで弱い存在なのだろう。
 唯一守りたい者すら守れなかったなんて。その決意すらも果たせないなんて。
「……ごめんなさい、リコリス」
 今どこにいるかも分からない最愛の妹に謝罪する。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 決してこの声が届くわけがないと分かっていながらも、ただひたすらに謝り続けた。

 その日、両親の死後初めて一人だけの部屋で眠りについた。
 いつも聞こえてくるはずのリコリスのおやすみの挨拶も、小さな寝息も聞こえてこない、息苦しいほどの静謐な空間。
 その中でただ涙を流し続け眠れぬ夜を明かしたエヴァリンは、この同じ空の下、リコリスが無事でいることをひたすらに願い続けた。

「結婚をお受けいたします、ウィルフレッド様」
 次の日にウィルフレッドに承諾の返事をすぐさま返した。これ以上無駄に悩む時間もやり取りする時間も惜しい。
 ウィルフレッドも叔父も喜び、この場にいないアダルバートもきっと今頃高笑いをしているだろう。エヴァリンもまた淑女の笑みを浮かべながら、まとまった結婚を喜んでいるように見せた。
 だが、その顔の下に怒りの業火を燃やし続ける。
 ――もう二度と奪われてたまるか。
 このまま利用されて搾取され続けられるなんてごめんだ。絶対にここから這い上がってやる。こちらを利用するのであればこっちだって利用し返してやるし、リコリスを取り返すためなら手段は選ばない。
 愚かな躊躇いも情も昨日流した涙と共にすべて過去のものにするのだ。
 そのためにウィルフレッドと結婚するのだって厭わなかった。罪悪感などもうない。彼だって彼の目的のためにエヴァリンと結婚しようとしているのだ、こちらだってその手の遠慮や配慮は必要ないはずだ。
「それで? 僕に叶えてもらいたいことは決まったかい?」
 叔父に隠れてこっそりとウィルフレッドが耳打ちしてきた。
 エヴァリンはフフと艶を帯びた笑みを浮かべる。そして同じように彼の顔の側に口元を持っていって耳打ちした。
「父から受け継いだ私の財産を叔父から取り返してください。それだけで構いません」
「それはもちろん。僕から言い出したことだから、君に言われなくても取り返すつもりだ。他には?」
「結婚式も花嫁衣装もいりません。なるべく早く、でき得る限り早くこの家から出してください。明日にでも――私を迎えに来て」
「分かった。明日、迎えに来るよ」

 かくして、エヴァリンは次の日にはクルゼール家に嫁いでいった。ウィルフレッドと縁続きになったことを盛大に世間に知らしめたかった叔父は、結婚式をしないと聞いて随分と渋ったが、それでも頑として首を振らなかったウィルフレッドが勝ち、希望を叶えてくれた。
 昨夜のうちにまとめた荷物は本当に少ない。リコリスの物も勝手に処分をされないように、一緒に積み込んで持っていった。
 出ていく前にいくつかアダルバートと約束ごとを決めてきた。
 こちら側の条件としてはリコリスの健康を配慮し管理を怠らず、勝手に家のために利用したりしないこと。あくまでエヴァリンのあずかり知らぬ場所で静養するだけにとどめるとした。
 アダルバートの条件は呼んだらすぐにやってくることはもちろん、経過報告をし、目的を果たすようにと念を押された。裏切られたと感じたり疑いを持つような行動をすれば、即座にそれ相応の対処をするという約束だ。そしてその監視役としてクルゼール家にはメイドのスージーがついてくることとなる。
 大きな喪失感と秘密を抱え、エヴァリンは静かにアマリス家を後にしたのだ。
「待っていたよ、エヴァリン」
 玄関先で出迎えてくれたウィルフレッドは、その歓迎の意を表すように抱き締めてきた。一緒に歓迎してくれた使用人たちは皆優しく、一人ひとり主であるウィルフレッドが紹介してくれた。
「今日からここが君の家だよ。遠慮はなしだ。何でも言ってくれ」
 簡単にドレスアップをして二人で教会へ行き神の前で誓いを立てる。二人と神父だけの静かで厳かなひととき。誓いのキスは意外にも温かかった。
 妻となり、エヴァリン・クルゼールとなったその日の夜、ウィルフレッドとの初夜を迎えた。
 さすがにこのときばかりは緊張して身体を強張らせたが、彼は泣きたくなるほどに優しくしてくれた。その顔も言葉も、この身体に触れる手も口づけすらも。
 ウィルフレッドの榛色の瞳が優しくて綺麗で。この人がエヴァリンを愛しているわけではないと知りながらも、そこに愛があるかのように錯覚させられそうになる。
 首の後ろに手を回したとき嬉しそうに微笑んだこととか、痛みに耐えている間に労わるように頬にキスを落としてきたこととか、溢れた涙を拭ってくれたこととか。そのしぐさ一つ一つに愛情を見出してしまいそうになる自分がいて、捨てきれない想いの残滓ざんしがいまだあることを知ったような気がした。
 二人の間に愛の言葉はない。それがすべてなのだと言い聞かせた。ウィルフレッドもまた、エヴァリンを利用しているに過ぎないのだ。
 信用してはいけない、決して。明け渡してはいけない、この心を。たとえ優しい言葉をかけられても力になると言われても、もう信じられるのはリコリスだけだ。
 彼女だけが良心で、唯一の善人。
 ウィルフレッドもアダルバートも叔父も。エヴァリンを取り囲む男が皆、エヴァリンをいいように扱う。
 この結婚も皆の利害を合わせた結果だ。そこにエヴァリンの意思が反映されたことはない。
 だから、今度はエヴァリンが利用するのだ。利用して搾取して捨てて、欲しいものを手に入れてみせる。
 これはそのための儀式だ。ウィルフレッドに穿たれて女になり、そして生まれ変わるのだ。強かで怜悧狡猾れいりこうかつな自分に。
 この人を堕として堕として堕として、――そして。
 すべてを手に入れる。

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