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【17話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

 ウィルフレッドのその言葉に一抹の不安を残したまま、何も答えることなくエヴァリンは頭を下げて向き直った。後ろで馭者が馬車の扉を閉める音がする。
「……っ……ふっ」
 ポタポタと音を立てて雫がスカートに当たり、ゆっくりと滴り落ちた。
 嗚咽だけは漏らすまいと歯を食いしばるが、この気持ちと共に口から飛び出てきそうだった。
 もう終わりだ。これでリコリスが助かる。
 それだけを考えた。それ以外が入る余地すらないほどに、暗示をかけるようにずっと。そう考え続けなければリコリスの顔すら見られそうになかった。ここから動くことすら難しい。
 エヴァリンは遠のく馬車の車輪の音を惜しむように、それが消えるまで耳を傾け続けた。

「結婚を申し込んできた? あいつがお前に? 本当か?」
 家に帰りその足でアダルバートに報告をすると、彼の食い付きようはすごかった。俄かに信じがたい、半信半疑。けれども喜びを抑えきれない。アダルバートの今の気持ちすべてをその顔が物語っていた。
「疑うなら確かめればいいわ。けど、今の私に、すぐに暴かれてしまう嘘をつくメリットはどこにもないと思うわよ?」
 何の偽りもないと自信をもって言えば、アダルバートは今度こそ疑いの声を上げなかった。彼は『そうか』と言ってニヤリと意地の悪い顔をする。
「私の役目はここまでよね? ちゃんと貴方の言ったことは果たした。その認識でいいのでしょう?」
「ああ。そうだな。あとは俺が、あいつがお前に振られた事実を皆に言い触らせばいい」
「……そう。勝手にして」
 アダルバートがどの程度脚色してこの事実を言い触らすのかは分からないが、それでウィルフレッドが跪くとは到底思えない。聡明な彼のことだ、エヴァリンとの関係を聞かれたとしてもスマートに返すのだろう。きっと手近にちょうどいい女性がいたから申し込んだに過ぎない彼には、エヴァリンに振られたことは何もマイナスにはならない。
 それを知らないアダルバートはただ一人浮かれていた。
「あいつのスカした顔が歪むのが楽しみだな」
 これ以上浮かれた戯言を聞くに堪えなくて、そっと部屋を出た。
 とぼとぼと廊下を歩きながらウィルフレッドを思う。
 いつか彼に謝りにいきたい。リコリスの病が治った後に、そのときエヴァリンを持ち得るすべてを持って。ウィルフレッドがどう思おうと、エヴァリンが騙したことに変わりはないのだから。
 ああ、そうだ。あの贈ってもらった石ですら返せずじまいだ。あの石もいつか返さなくては。
 ぐるぐると考えてまた泣きそうになる。石だけじゃない。ウィルフレッドからもらったものが多すぎて大きすぎて、返し切れそうにも謝り切れそうにもない。
 そう思えば思うほどに目の前の景色が歪んでいった。またこのままでは一歩も動けなくなってしまうと、目元をハンカチで拭い足を動かす。
 一階の一番奥、窓もなくランプも置いていない薄暗い廊下の突き当りにリコリスとの部屋がある。またこの部屋に籠りきりの生活に戻るのかと思うと気が滅入るが、それでもエヴァリンの希望もまた、この部屋の中にあった。
「お姉ちゃん、お帰りなさい」
「ただいま、リコリス」
 今日は調子がいいようで、エヴァリンが出かける前から本を読んでいたリコリスは、この時間まで読み続けていた。顔色もいい。着実に病状はよくなってきている。
「今日のデートはどうだったの? お姉ちゃん」
「そうね……」
 明るい顔で聞いてくるリコリスの無邪気な質問が胸を突き刺す。
 咄嗟にどう答えていいか分からなくて、考える時間を稼ぐべくドレスを脱ぐためにクローゼットに向かっていった。そうは言っても結局はいい答えなど見つからず、ドレスの衣擦れの音だけが部屋の中に響く。
 普段の着慣れた襤褸ドレスを身にまとったエヴァリンは、気まずい思いを抱えながらリコリスのもとへと戻っていった。案の定、彼女も何も言わないエヴァリンに怪訝な顔を向けている。
「お姉ちゃん? どうかしたの?」
 リコリスはエヴァリンの変化に敏感だ。両親亡き後、特に些細なことにも気を配って支えになろうとしてくれている。
「クルゼール様と何かあった? ……何か酷いことされたり」
 リコリスの顔がだんだんと気色ばんで、こちらに身を乗り出してきた。あまり興奮させるのは身体によくないので、落ち着かせるためにリコリスの横に腰を掛けて肩に手を置いた。
「大丈夫よ。大丈夫。ウィルフレッド様が何かしたとかそういうのじゃないの」
「でもお姉ちゃん元気がない。何かあったから元気をなくしてしまったんじゃないの? いつもクルゼール様と出かけた後はもっと楽しそうだった。今みたいな顔、一度もしたことないじゃない」
 薄っぺらい言い訳などリコリスには通用しなかった。
 下手な嘘は逆に怪しまれる結果となる。エヴァリンは苦笑してリコリスの頭を撫でた。
「今日ね、ウィルフレッド様とお別れしたの。もう二度と会いませんって私が言ったのよ」
「ど、どうして!?」
 『どうして』。その質問が一番堪える。知られたくない部分はどうにか触れずにいたいものだ。きっとエヴァリンがやったことを知ったら、リコリスはその優しさゆえに泣いてしまうのだろう。
「たしかにね、ウィルフレッド様と会うのは楽しかったけど、でもデートを重ねる相手ではないと思ったの。あの人は引く手数多だもの。私なんかがこれ以上時間を奪うわけにはいかないわ」
 この先ウィルフレッドにも愛する女性が現れるかもしれない。
 利害関係からではない、本当に心から望む人を妻に望みたいと思う日がいずれくるのだとしたら。エヴァリンが側にいることでその芽を潰すのなら、やはり離れていた方がいい。
「そんな顔しないで、リコリス。きっとこれからいろんな出会いがあるわ。私にも、もちろん貴女にも。別れはそのためのプロセス。決して悪いことばかりじゃないのよ」
「お姉ちゃん……」
 涙ぐむリコリスをそっと抱き締めた。この綺麗な涙を拭うのがエヴァリンの役目で、無垢で優しいリコリスを守るのがエヴァリンの道。
 大丈夫。哀しいのは今日だけだ。きっと明日にはいつものエヴァリンになれる。
 そう信じて、その日は二人で寄り添って眠りについた。

 ところが。
「おい! どういうことだエヴァリン! あいつが! ウィルフレッドがやってきて、親父にお前との結婚を申し込んできやがったぞ!」
 事態はエヴァリンの思い通りには進んではくれなかった。
 アダルバートが部屋に怒鳴り込んできたのは、二日後の昼過ぎだった。
 その日は前日からリコリスの調子がよくなくて、朝から側を離れることなく看病をしていた。やはり、リコリスなりに、エヴァリンがウィルフレッドに別れを切り出した話がショックだったらしく、それが身体に影響を及ぼしたのだろう。昏々と眠り続けていた。
 少しリコリスの顔色がよくなり始めた頃、アダルバートが扉を蹴破る勢いで中に入ってきたのだ。鬼気迫る勢いで。
 エヴァリンの袂を掴んで怒鳴るアダルバートの言葉は信じがたいものだった。
 二日前あれだけ手酷く振ったウィルフレッドが、わざわざ出向いて叔父に結婚を申し込みに来るなどどう考えてもあり得ない。プライドが高そうなウィルフレッドなら絶対そんな軽率な真似をしそうにないのに。
 けれども、一つだけ心当たりがあった。
 ウィルフレッドの別れの間際の言葉。あれはこれを示唆していたのか。終わったと思ったのはエヴァリンだけで、ウィルフレッドはまだ諦めていないのだとしたら。
 ――もしくはエヴァリンの思惑に気が付いて、密かに報復しようとしているのだとしたら。

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