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【13話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

 五日後に本当にデートは実行された。
 その場の社交辞令かもしれないと半信半疑だったが、パーティの翌日に正式にお誘いの手紙が来たのでホッと胸を撫で下ろした。
 デートが何をするものかは知識としては分かるが、具体的にどうするかは想像の範囲を出て考えることなどできない。母は昔『男性のエスコートに任せなさい』と教えてくれたが、本当にそうでいいのだろうか。
 漠然とした不安を残しながらも当日を迎えた。
「緊張している?」
 家にまで迎えに来てくれたウィルフレッドは、エヴァリンの顔を見て最初にそう問うてきた。
「そんなに分かりやすいですか?」
 苦笑しながら聞き返すと、彼もまたクスリと笑う。余裕のなさを今さら隠しても仕方がないが、それでも少し恥ずかしかった。彼に心の内を読まれるのはあまりよくない。
「あまり気負わないで。君が初めてだって知っているし、僕がちゃんとエスコートするから何も心配ない」
 ウィルフレッドはフォローが上手い。さりげなく外の世界に慣れないエヴァリンが気に病まないように、安心感を与えてくるのだ。
 きっとこういうところなのだろう。彼が女性を虜にするのは。
 金や名誉、そしてその容姿だけではない。気遣いができて女性をリードしてくれる頼もしさがある。物腰の柔らかさも優しい言葉も、女性を魅了していくのだろう。
「それに、その初々しさは嫌いじゃない」
「ありがとうございます」
 こういう言葉も臆面もなく言えてしまうところも、また魅惑的に見える。
 生粋の紳士なのか、それとも女心を心得ている天性の女たらしなのか。そのいずれにせよ、彼とのひとときを過ごしたいと思う女性たちの気持ちが分かるというものだ。
「音楽は好きかい?」
 そう聞いてきたウィルフレッドに、エヴァリンは素直に『好きです』と答えると、彼は『よかった』と笑う。
「なら、今日は思う存分楽しんで」
 行き先を告げずにただそう言うウィルフレッドは、最初のデートの場にオペラを選んだ。思いもしなかった行き先に、エヴァリンはしばし劇場の石造りの外壁を見上げながら唖然とする。
 庭園で歩くくらいかと思っていたが、その予想を遥かに超えた場所に今自分がいることが信じられない。ウィルフレッドは本当にエヴァリンとデートをしてくれるつもりなのだ。
 陶然としているエヴァリンの顔を見て、ウィルフレッドがしてやったりと微笑んだのが分かった。はじめから驚かせるつもりでここに連れてきたのだろう。紳士的ではあるがこういうところは人が悪い。
 けれども嬉しかった。またここに来ることができるとは、両親が死んでからは思いもしていなかったのだ。
 五歳の頃にたった一度だけ連れてきてもらったこの劇場は、今のエヴァリンにとっては泡沫の夢だった。もう二度と見ることのできない夢なのだと諦めていたものが、目の前に現実として現れた。
 今でも覚えている。あのときの興奮を。耳に響く歌声を。うるさいほどに鳴り響く拍手の嵐を。その熱気を思い出しては、この身体が火照るような感覚がする。
「僕の好みで悪いけどね。こういうデートはどう?」
「あ、ありがとうございます! 嬉しいです。またここに来ることができるとは思ってもみなかったので……」
 嬉しさのあまり頬を赤らめて声を弾ませるエヴァリンを見て、ウィルフレッドがクスリと笑う。子供っぽい態度をとってしまったのにもかかわらず彼はその態度を変えない。優しい目をエヴァリンに向けて、すべてを許してくれる。
 これが叔父やアダルバートであればそうはいかなかった。ともすれば『みっともない』と折檻を受けることもあるだろう。
「楽しみです」
「僕もだよ」
 返される言葉が優しい。それだけなのに幸せを感じるなんて。
 嫌味や皮肉ではない言葉をかけられる日常が遠のき、まともな会話ができたのはリコリスだけだった。元々家に仕えていた使用人たちは叔父が越してきたときにすべて解雇され、今いるのは息のかかった者たちだけだ。もちろんエヴァリンたちはいないものとして扱われている。
 例えばごく自然に手を差し出されること。優しく微笑まれて、存在を認めてくれること。名前を呼ばれて他愛のない会話をしながら歩くことも。今のエヴァリンには与えられないものだった。
 彼が見せてくれる外の世界や新たな世界は、エヴァリンを翻弄し、また喜ばせた。両親がいた頃の感覚が戻ってきて、自分がまだあの埃臭く狭い使用人部屋に押し込まれる前の、何も知らない無垢な人間のままここにいるような気がする。
 それに酷く動揺しながらも、甘受している自分がいた。
 まずいと分かっている。このままではウィルフレッドに引きずられて、何も成し得ることができなくなってしまう。彼をこのまま堕とせても上手くいかずに振られても、アダルバートとの取引は破談だ。結局はリコリスの命が危機に晒される。
 隣を歩くウィルフレッドの横顔を見ながら、小さく息を吐き出した。
 夢見心地になりながらも、常に現実はそこにある。それが分かっているのに、このデートを楽しみたいと思っているなんて……どうかしている。
 そんな罪悪感に苛まれながらも、夢のひとときは一瞬だった。時が止まってほしいと思うほど残酷に過ぎていく。
 オペラを聞きながら感じていた子供の頃の感動も、舞台に立つソプラノ歌手の歌声が与えてくれる高揚感や興奮も、それらすべての余韻を引きずりながらの帰り道は辛いものだ。まだ帰りたくないとどうしても思ってしまった。
「エヴァリンは好きなもの、ある?」
 郊外へと続く大きな橋を馬車が通り過ぎていく。あぁ、終わってしまうと惜別の思いが溢れ出てきた頃、ウィルフレッドはエヴァリンの手を握り締めてきた。無意識にエヴァリンも握り返す。
 好きなもの、と考えて最初に思いついたものはあったものの言い淀んだ。その昔、人に笑われたことを思い出したのだ。
「ウィルフレッド様に笑われてしまうかもしれませんが」
「笑うようなものなの? むしろ俄然聞きたくなった。君の心を掴むものが何なのか興味があるね」
 彼の言葉は実に巧みだ。渋っていた心がいつの間にかその気になっているのだから。そこまで言われると笑われてもいいような気がしてくる。
「石、なんですけど」
「石?」
「はい。ひとえに石と言ってもいろいろあって、特に原石が好きなんです。宝石になる前の磨かれていない石がすごく好きで」
 昔からそうだった。母親の首にかけられているネックレスの宝石も綺麗で憧れたが、それでもエヴァリンの興味を引いたのが、家にやってくる宝石商が見せてくれる原石の方だ。父や母に宝石よりも原石の方が欲しいとおねだりをしたこともあり、そのたびに笑われた。
「こんなもの欲しがるのは貴女くらいのものだってよく宝石商に笑われたりしたんですけど、やっぱりあの複雑な色合いとか光とかを見るのが好きで。時々綺麗な結晶ができている石もあったりして、その形も様々なんです。自然そのままの、人の手が加えられていない未完成の美と言いますか。何故か魅入られてしまうんです」
 小さなものしか買ってもらえなかったが、今でもそれはエヴァリンの宝物だ。叔父たちに見つからないように、クローゼットの奥にしまい込んでいる。
 久しく見ることのなかった宝物たちを思い出し、またこの目で見たくなった。追想にふけるしかない今、それらを見たら泣いてしまうかもしれないけれど。そんな自分を想像して少し気恥ずかしくなった。

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