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【10話】不埒なあなたはこの愛に沈む~狡猾な夫の思惑と従順な妻のはかりごと~

作品詳細

 だが、怪訝そうな顔は一瞬で、すぐにその顔が綻んだ。
「もしかして誰かと一緒に出掛けるの? デート?」
 ドレスを着てめかしこむのはきっと男性との逢引きのためだろうと予想したリコリスは、屈託のない笑顔を向けてきた。それに曖昧に微笑んだエヴァリンは、小さな声で『そうね』と答える。
「デートではないけれど、人に会う予定があるの。初めて会う人だから恥ずかしくない格好をしなくちゃいけないから。さすがにこんな格好じゃあ相手に呆れられてしまうわ」
 立ち上がって、今自分が着ているワンピースのスカートの裾を掴む。人によっては襤褸ぼろと呼んでしまうであろうそれは、父の生前に買ってもらったものだ。サイズも小さくなり着ると胸が圧迫されるし、スカートの丈も足りなくてふくらはぎが見えてしまっている。新たな服を買うことが叔父から許されていないエヴァリンの、数少ない普段着の一つだ。
 普段なら外に出ることもないのでこれでいいのだが、さすがにパーティではそうはいかない。衣料事情はリコリスも同じなので、深く追及することもなくすぐに納得してくれた。
 ドレスをまた衣装箱に仕舞い、リコリスのベッドの端に腰掛ける。今日は顔色がいい彼女の頬を撫でると、不意にその手を掴まれた。
 強い力だった。弱ったリコリスから出ているとは思えないほどに力強い。そして彼女の顔もまた、真剣だった。
「ねぇ、お姉ちゃん。楽しんできてね。なかなか外で人に会える機会、あまりないから。私のことはいいから、自分の幸せを掴んできて。そしてここから出て。――お願い」
 エヴァリンは言葉をなくし、喉の奥から迫り上げてくる熱を必死に溢れ出ないように抑え込んだ。ここで涙など見せられるはずもない。
「……ありがとう、リコリス」
 だから、必死に笑顔を作った。この気持ちを悟られないように、エヴァリンは無心になって笑顔を作る。
 エヴァリンがリコリスを思うのと同じように、リコリスもまたエヴァリンの幸せを思ってくれているのだ。病魔と闘い苦しみながらもまた、他人を思いやれる優しい子。
 その思いに別の形で報いたかった。

「ふんっ。お前は本当に見た目だけはいい」
 パーティ当日にドレスアップをしたエヴァリンを見たアダルバートは、苦々しい顔で言ってきた。素直に褒めることができないのだろう。とりあえず他に何も言ってこなかったので、及第点であると勝手に解釈した。
「それで男を漁ってくるのか。まぁ、せいぜい金のあるやつを釣ってくることだな。お前とリコリスを養えるほどでなければ、この屋敷から追い出すこともできないからな」
 驚いたことに玄関先でエヴァリンを待っていたのはアダルバートだけではなかった。その隣に叔父もおり、エヴァリンの姿を天辺からつま先まで舐めるように見た後に、そう吐き捨てた。
 今回、アダルバートは叔父向けにエヴァリンを外に出す口実を、伴侶探しとしたようだった。
 エヴァリンはもう十八歳と適齢期で、伴侶を探してもおかしくない歳だ。今まで外聞を気にして、屋敷からエヴァリンたちを放り出すことをしなかった叔父も、関心のなかった姪たちの使い方に賛同して彼なりの励ましの言葉をくれたわけだ。
「行ってまいります、叔父様」
 腰を深く曲げて出立の挨拶をするも、返事はなかった。
 今回向かうのはダリアン氏の別邸らしい。本邸とは別に作られたそこは、客をもてなすときのみ使われる。そこでよくパーティを催して、中流から上流階級の富裕層の人間を集め交流するのだと、アダルバートは得意げに説明をしてくれた。
 アマリス家がいまだに富裕層と見られていることに驚いたが、おそらく叔父が父の失敗を取り戻したのだろう。人間の情はないが、金を稼ぐ才能はあるようだ。
 二頭立ての小さな馬車は、小さな丘の上にそびえ立つ真っ白な豪邸の前で止まった。玄関にある立派な太い二本柱が象徴的な別邸の前には馬車が立ち並んでいる。待っている間、数えきれないほどの人間が中に入っていくのが見えて、密かに緊張を高まらせた。
 そんなエヴァリンに一切目をくれずに、アダルバートはフットマンに案内されるがままに先に進んでいく。それに取り残されないようにひたすらに足を動かした。
 大広間の重厚な扉の前に立ったとき、一瞬足が竦む。
 ――この中に入ればすべてが始まるのだ。
 いざそのときを目の前にして、エヴァリンはどうしようもない恐怖に襲われた。
 フットマンでさえ、エヴァリンの普段着よりも上等な服を着ているこの屋敷。天井からぶら下がるシャンデリアの明かりは、目の中に突き刺さるほどに眩い。上等な服に上等な装飾品を身に着けた参加者。
 この国のすべての贅を集めたかのようなこの空間は、エヴァリンにとっては未知の場所。おとぎ話のような煌びやかなものであり、おとぎ話のように怖くて残酷なものだ。けれども生前の父と母が願った場所でもあった。
「しっかりとやれよ」
 アダルバートが念を押す。この扉が開けばもう後戻りはできない。
 やり遂げるしか道はなかった。

「知らなかったよ、アダルバート君。君にこんな美しい従妹がいたなんて。……そういえば、アマリス家の亡くなった御当主には、美しい娘が二人いると聞いたことが。あぁ、なるほどなるほど。それでは貴女がその噂の娘さんですか」
 主催者のダリアン氏は弛んだ顎を揺らしながら高らかに笑った。顔が広く誰にでも気さくな彼は、初めて会うエヴァリンにも優しく話しかけてきてくれる。緊張しているエヴァリンは気の利いたことも言えずに、無難な言葉を返した。
 隣のアダルバートの口端がヒクリと引き攣ったのを見て、さらに緊張を募らせる。
 本当にウィルフレッドを堕とすことができるのだろうか。この場の雰囲気に飲み込まれて、話しかけることすらままならないのではないのか。
 漠然とした不安が、エヴァリンの中で明確なものになっていった。
 ダリアン夫妻に挨拶を済ませてその場を離れたエヴァリンたちは、いったん部屋の端に行って作戦会議をし始めた。辺りをぐるりと見渡し、客の顔ぶれを確認する。
「ちっ。腹立たしいほど目立つ奴だ」
 すると、ある一点でアダルバートの顔が見る見るうちに歪んでいき、忌々しそうに呟く。エヴァリンもつられてその視線の先を見た。
 そこには何人もの女性に囲まれた美丈夫が一人。整った顔に女性を魅了するような笑みを浮かべていた。
 切れ長の涼しげな目、癖のあるアッシュブロンドの髪の毛、柔和な表情。流行などは分からないが、それでも彼の着ているものがスタイリッシュでかつ上等なものだと分かる。一分の隙もなく整ったその出で立ちは、明らかにこの会場の中で一等目立っていた。目立ちたがりのアダルバートがそんな顔をするのも分かるというものだ。
 だがきっとそれだけではないのだろう。
 彼がウィルフレッド・クルゼールだから、アダルバートも意識してしまうのだ。そしてエヴァリンも、彼を認めてじんわりと手のひらに汗をかく。
 その数多の女性を魅了するさまといい、女性だけではなく男性も彼を中心にして輪を描いている様子は異様で、そしてウィルフレッドの人気を窺わせる。
「……あの人がウィルフレッド・クルゼール、よね?」
 念のためにアダルバートに聞くと、ただ何も言わずに頷き返した。それを確認した後、エヴァリンはつぶさにウィルフレッドを観察し始める。
 当然だが、人から聞くのと自分の目で見るのでは印象が随分と違う。アダルバートは彼を底意地が悪く嫌味たらしい最低の人間だとは言っていたが、今目線の先にいるのは物腰の柔らかい優しそうな人だ。
 話も上手いのだろう。一緒に話している女性の笑顔が常に絶えず、随分と弾んでいるようだった。

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