【6話】美貌の教授は一途な司書に恋を甘く教える

作品詳細

 
 脚立が倒れた金属音が辺りに響いたけれど、がっしりした体が私に覆いかぶさり、強く抱かれて庇われたせいで、体のどこにも痛みは感じない。
 頬に触れる体温、それに覚えのある香り。学生の頃、先生の研究室でいつも胸をときめかせた、あの匂いだ。
 誰もいないふたりきりの空間で私と先生は抱き合い、床に転がっている。
 何も考えられず、何も反応できない私の体は、ただ心臓だけが忙しなく鼓動を刻んでいる。
「……困った子だね」
 しばらくの沈黙の後、無意識に先生のシャツを握りしめていた手が強引に解かれた。
 目の前、ほんのすぐそばに私を見下ろす先生の顔。怒っているとも呆れているともとれる表情に、現実が一気に押し寄せてくる。
 わ、私ったら、なんてことを……。
 肩で息をするだけの私に、息すらかかりそうなほど近い距離で先生の視線が注がれる。
「本当に無茶だね、君は。……大丈夫? どこも痛くない?」
 まだ桂川先生に組み敷かれる格好のまま真上から見下ろされ、そのあまりの衝撃に自分を取り繕うこともできない。
「学生の頃から思っていたけれど、君はもう少し周囲に注意して行動した方がいい。確かゼミ旅行に行った時も、見学に夢中になりすぎてバスに乗り遅れたことがあったし……。一生懸命なのは分かるけれど、もう社会人なんだから少し肩の力を抜くことを覚えなさい」
 三年ぶりに話ができたのに叱られてしまった。
 叱られて当然のことをしてしまったのだから仕方無いけれど、きっと先生は私のことを変な子だと思ったに違いない。
 ……というか、ゼミにいた頃から変な子だと思われていたのだろう。
 先生にますます嫌われてしまったのかもと思うと、全身に痺れるような絶望感が広がった。
 いたたまれなくなって固く目を閉じると涙が流れ落ち、自分が泣いていることに気づく。
 ダメだ。こんなことで泣くなんて本当にバカみたいだ。
「ご、ごめんなさ……」
「謝らなくていい。あんな場面を見せて君を動揺させた僕にも責任がある。ただ、最近の子たちは油断も隙もなくてね。皆が君みたいな学生なら、僕ももっと穏やかに授業ができるんだけど」
 先生の綺麗な目が優しく細められ、やれやれとでも言うように指先で頬を撫でられる。頬を濡らした涙をぬぐわれているのだと気づき、また涙が溢れて止まらなくなる。
「意外と泣き虫なんだな、君は」
 そんなことない、と答えようとしても言葉は出て来ず、しゃくりあげるような息しかはくことができなかった。
 先生はそんな私の前髪を掻き上げ、頬を撫でた。まるで小さな子供にするみたいに何度も何度も撫でられ、それでも止まらない涙を親指で拭う。
「眼鏡をかけていない君を見るのは初めてだから、こんなに綺麗な目をしてるだなんて知らなかった」
 さっきまでの苦笑はいつの間にか消え、どこか切なげな表情が先生の眼差しに宿った。先生の親指が泣きすぎて震えている唇に辿りつき、優しく何度も撫でてくれる。
 まるでそうすることで、先生自身を慰めているみたいに。
 やがて先生の顔が、本当に唇が触れてしまいそうな距離まで近づいた。
 そして長い人差し指を、私と先生の唇の間に立てる。
「そろそろ泣き止んで。……そうじゃないと、僕が困る」
 憂いを帯びた瞳で見つめられ、私はしばらくまともに息もできないでいた。

 翌日の午後。
 私は遅い昼食をとるため、ひとりカフェテリアに足を踏み入れた。
 すでに一時半を回っていたため、お昼の時間には混みあっているテーブルに人影はまばらだ。
 私は持ってきていたお弁当を手に、日当たりの良い窓際の席に座る。
「ここ、座ってもいい?」
 包みを解いたタイミングで声をかけられ、心臓がどきりと跳ねあがる。
 視線を上げると、桂川先生が昼食のトレイを片手に立っているのが目に入った。

作品詳細

関連記事一覧

テキストのコピーはできません。