【5話】美貌の教授は一途な司書に恋を甘く教える

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 油断すると何度も溢れそうな涙を何とかやり過ごし、私は作業を続けた。
 ダメだ。しっかりしなきゃ。
 職場で泣くなんて、そんなのが許されるのは社会人一年目までの話だ。
「ずいぶん熱心なんだな」
 不意に背後から聴こえた声にビクッと身がすくむ。
「これ、高柳先生から預かったよ。さっきは研究室にこれを持ってきてくれたんだろう? 君が見つけてくれたんだってね。ありがとう。助かるよ」
 振り向いた先には、さっき研究室で学生を膝に乗せていたはずの人が立っている。
 背の高い桂川先生を見下ろす形で、私は脚立の上から振り向いたままの姿勢で静止した。
「さっきはわざわざ持ってきてくれたのに済まなかったね。あれは……」
 そう言いかけた先生の言葉を遮るように、私は本棚から乱暴に何冊かの本を抜き取る。
 ……学生に手を出した言い訳をする先生なんて、もっと見たくない。
 この感情が嫌悪感だけでは無いことを自覚しながら、私は敢えて視線を逸らさぬまま答えた。
「……お礼なんて結構です。仕事でやっただけですから」
 木で鼻をくくったような返答にも、桂川先生は一向に怯まない。
「君をびっくりさせたんじゃないかって、それが気になってね。君は昔から、感受性が少し強すぎるから」
 先生とこんな風に話をするのは卒業以来だ。
 大好きだった低くて滑らかな声。一見穏やかに聞こえるのにどこか支配的なニュアンスを含む口調は、講義の時と全く変わらない。
 それにいつも通り先生の口調は余裕に満ちていて、それがますます私をイライラさせる。
「わ、私だってもう学生じゃないですから。別にびっくりなんかしてません。先生がどなたと何をされようと、私には関係ありませんから。……それに誰にも言いませんから、ご心配なさらないでください」
「……やましいことは何もないから、別に誰に言ってもらっても構わない。さっきの子は少々悪ふざけが過ぎてね。以前から気にはなっていたんだが、良い機会だからきつく叱っておいた。単位が惜しければもうやらないだろう。……僕がああいうことが嫌いなのは、僕のゼミにいた君なら分かると思うが」
 なおも揺らがない先生の口調に、自分だけが動揺していることが悔しくて堪らなくなる。
 けれど言い返す言葉も思いつかず、私は腹立ちまぎれに最上段の分厚い本を抜きとった。ステンレスの脚立が不安定に軋む。
「なにを怒っているのか知らないが、危ないからもうやめなさい。ちょっと落ち着いて、一度そこから降りてきちんと話を……」
 背後からため息交じりに呟く声が聴こえて、刃物で刺されたように胸が痛む。
 こんなの、さっき悪ふざけをしていたという学生と全く同じ扱いだ。
 先生にとっては、私などその他大勢の学生のひとりなのだろう。……いや、きっとそれ以下だ。
 その証拠に、この図書館で働き始めてもう三年目になるのに、先生と言葉を交わしたことなど今日まで一度も無かった。こんなに近くでふたりきりで話したのは、卒業以来初めてのことだ。
 それなのに私は、未だに先生への気持ちを断ち切れないでいる。
 こんなの惨めを通り越して、呆れるレベルだ。
「これが私の仕事ですっ。いくら先生でも、口出しはご無用、もう研究室にお戻りに……きゃ……!」
 半ばやけくそになって体を捻った瞬間、僅かに動かした足が脚立からずり落ちて体がぐらりと揺れた。
 ふらついた体が書庫にぶつかり、上段から本がバサバサと床に落ちる。顔に本がぶつかり、眼鏡がどこかへ飛んで行った。
「危ない!」
「きゃあぁぁ!」
 その衝撃で私も脚立から転げ落ち、したたかに床にたたきつけられる……はずだった。
 けれど私の体は、倒れる前に誰かの手に引き寄せられる。
「……!」

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