【3話】美貌の教授は一途な司書に恋を甘く教える

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「先生の字、相変わらず綺麗だな……」
 それは在学中、授業で何度も目にしてきたものだ。当時の懐かしい記憶がよみがえると同時に、私の胸にきゅっとするような痛みが走る。
 本当のことを言うと、私も桂川先生の教え子だ。
 一、二年の選択科目も桂川先生の授業を取ったし、三年からはゼミの担当でもあった。
 だから在学中はずっと先生の指導を受けていたけれど、先生と個人的な話をしたことは一度もない。
 先生の周りには、いつでも華やかな学生たちが溢れていたし、まして私のようなものがその中に加わることなど、できるはずもなかった。
 先生と言葉を交わしたのは、大学生活四年間の中でも数えるほどだろう。
 今だってそう。同じ大学の図書館で働いていても、言葉を交わすことなど一切ない。
 たまに図書館に訪れる先生と視線が合っても、お互い軽く会釈するのみだ。
「本、どこへいっちゃったのかな……」
 授業で使う本なのだから、無いときっと、桂川先生が困る。
 やはり一冊ずつ確認していくしかないかと諦めかけたとき、メモを見つめる視線の先に、一冊の本が横向きに差し込まれているのに気付いた。
 もしかしたらと背伸びして手を伸ばすと、案の定、探していたタイトルが目に入る。
「よかった……」
 お昼休みが終わるまであと五分ある。今すぐ貸出処理をして研究室に行けば、先生の手元に本を届けられるだろう。きっと桂川先生も早く手元に届いた方が良いはずだ。
 私は急いでデスクに戻って貸出システムを立ち上げ、桂川先生のIDを検索する。
 すると映し出された画面に〝未返却〟のアラートが提示されているのに気付いた。
「……?」
 延滞の表示がされているのは、近代作家の有名な小説だ。初版本という訳ではないけれど昭和の初めに出版されたもので、図書館の蔵書としては貴重図書の分類に入る。
 本来、延滞されている本の借主には定期的に返却を促すメールを送るシステムになっている。
 けれど、論文や授業の参考文献に使用することもある教授に関してはその辺りの規制が緩く、督促のメールは送られない。
 年に一度の棚卸の際、未返却リストを教授に送って一旦返却してもらうことになっていたはずだけれど、どうやらこの本はそのリストから漏れているものらしい。
 貸し出し年月日の欄には、十年も前の日付が記されている。
 ……そんなに長いあいだ放っておかれたものがあるなんて。とにかく一度、先生に確認して返してもらわなくちゃ……。
 何故か浮足立つ心を抑えつつ、私は席を立った。

 国文学部に属する教授の研究室は構内のつきあたり、九号館の六階にある。
 桂川教授の研究室はその一番奥、東の端にあった。
 エレベーターを降りると、午後からの授業が間もなく始まるためなのかすでに学生の姿は見当たらない。
 私はひっそりと静まり返った廊下を進み、桂川教授の研究室の前で立ち止まった。
 ほんの二年前まで自分が通っていた研究室なのだから慣れた場所のはずだけれど、桂川先生のプライベートな空間に入るかと思うと、勝手に心臓がドキドキと波打ってしまう。
 本当のことをいうと……桂川先生は私の憧れの人だ。
 もちろん文学者としての先生をとても尊敬しているし、それに……別の意味でも先生は私にとって特別な存在だった。
 破裂しそうな心臓を抑え、気持ちを奮い立たせて三回部屋の扉をノックする。けれど、しばらく待っても返事は返ってこない。
「いないのかな……?」
 さっき確認した時間割では、今日の授業は午前中で終わりのはずだ。
 何の気なしに目の前の扉を押すと、わずかな抵抗も無く隙間が開いた。
 反射的にドアに近づくと、中からは人の気配が感じられる。

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