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【12話】美貌の教授は一途な司書に恋を甘く教える

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「花奈子は紙に書かれた世界を研究する僕や朱雀君とは、全く違う価値観を持っていたんだ。今地球で何が起こっているのか知りたいと言って、大学生の頃からボランティア活動をするために世界中を飛び回っていた。卒業後は国連関係の仕事をしたりしてほとんど日本にはいなかったから、花奈子に癌が見つかってふたりが結婚するなんて言いだすまで、僕は花奈子が朱雀君と連絡を取り合っていたことなんて、まったく知らなかったんだよ」
 山路先生の声は穏やかで、だからこそ、どれほどの深い悲しみを乗り越えて今があるのかが痛いほど伝わってくる。
 いつの間にか私の頬を涙が濡らしていた。先生が学生時代から想いを寄せていた人。
 その最愛の人を失った桂川先生の悲しみを思うと胸が苦しかった。
「泣かせるつもりじゃなかったんだが……。朱雀君に叱られてしまうな」
「いいえ。……お話を聞けて嬉しかったです」
 心配そうに私の顔を覗き込む山路先生に微笑んでみせると、若い頃はきっとハンサムだったろう魅力的な笑顔で、黙ってうなずいてくれる。
「僕の勝手な思い込みで申し訳ないけれど、彼が僕に君を会わせてくれたから、花奈子のことを話さなくてはいけないと思った。山本さん、花奈子と朱雀君はたった一年しか一緒に暮らせていない。しかも病に倒れて日に日に弱っていく花奈子を、彼は一番近くでずっと見ていたんだ。だから彼には今度こそ、大切な人と楽しい日々を過ごしてほしい。……幸せになって欲しいんだよ」
 何故だか涙が止まらなかった。会ったことも無い人なのに、彼女がどれほど桂川先生を愛していたのか、先生を残して逝くことをどれほど悔やんでいたのかが、手に取るように分かった。
 しばらくの間、山路先生はただ黙って私の背中を撫でてくれた。
 そして最後には穏やかな優しい笑顔で「朱雀君の心を溶かしてくれてありがとう」と言って去っていった。

 先生と待ち合わせた時には綺麗に晴れていた空が、灰色の雲で覆われている。
 美術館のウッドデッキから見える海もその色をブルーグレーに変えて、もうすぐ雨になることを伝えていた。
 湿気を含んだ海風に吹かれながら、私の心も空を覆う雲のように暗く沈んでいく。
 さっき山路先生から聞いたことで、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
 先生の奥さんだったという花奈子さん。それぞれ自分の道を歩き続けた桂川先生と花奈子さんが、ごく若い頃からお互いを大切に思っていたこと。
 最後の時を夫婦として過ごしたことからも、どれほど桂川先生が花奈子さんを大切に思っていたのか、痛いほど伝わってくる。
 敵うはずがない、と思った。
 私がどんなに桂川先生を好きでも、桂川先生には永遠に愛する人がいる。
 それに山路先生は誤解している。私は桂川先生にとって、花奈子さんの代わりになれるような存在ではないのだ。
 先生との距離が近づいたのは、ちょっとしたトラブルがあったから。
 ただそれだけのことに過ぎない。
 俄かに冷たい風が吹き、ウッドデッキに落ち始めた水滴が木目を黒く染めていく。
 私は無意識に、デッキから浜辺に続く階段を降りていった。

 本降りになった雨が私の体を濡らしていく。
 先生と会うために必死に選んだ花柄のワンピースも、水を吸ってぐっしょりと濡れた重い布きれになって体に張り付いていた。
 髪も、顔も、ついでに眼鏡すらびっしょり濡れて、次第に視界もままならなくなる。
 それでも歩き続けていると、不安定な砂地に足を取られてぐらりと体が倒れ込んでしまった。肌を打つ冷たい雨が、次第に体温を奪っていく。
「なにしてるんだっ」
 背後から大声で怒鳴られ、続いて乱暴に腕を引き上げられる。
 ハッとして顔を上げると、同じように雨でずぶぬれになった桂川先生の鋭い視線に捉まった。
「探したんだぞ。……こんなところで何をしているんだ」
 こんなに感情的な桂川先生を見るのは初めてのことだ。怒った顔もなんでこんなに素敵なんだろうなんて、ぼんやりと先生の顔を眺める。

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